コメント
染の世界が何か息苦しく、型にはまりこみすぎているように思えて、私は飛び出すことに決めました。
私の考える図柄は、呉服の世界のお歴々にとってはいささか奔放すぎたらしい。「こいつはどっちかっていうと版画のようじゃないか?」と彼らは私に言ったものです。私もそう思った。そこで私は、他人がやってないことをして生きてみようと決心しました。それと同時に、やりたいことをやって自分を表現してみようとも思ったのです。
(「版画芸術」5号 特集記事「日本の心のかけらを見つけた......」本人コメントより抜粋)
略歴
- 1898年
- 東京市日本橋区に生まれる
- 1902年
- 祖父が経営していた魚問屋が倒産。日本橋浜町の伯母宅に転居する
- 1912年
- 日本橋高等小学校を中退し奉公に出る。いくつかの奉公先を転々とする
- 1915年
- 文様家・山川霽峰に弟子入りし、紋様・染色を学ぶ
- 1918年
- 徴兵され、2年の兵役による空白期間を埋められず山川の元を去る
- 1921年
- 桜木油絵具製造工場に勤める。雇用主に油絵風の絵を要望され太平洋洋画研究所に通うが肌に合わず、翌年川端画学校に転校する
- 1922年
- 山川霽峰時代の兄弟子・晴夢の文様の仕事を手伝う
- 1925年
- 兄弟子から独立し、文様加工業を営む
- 1938年
- 日本民芸館を見学し、柳宗悦の講義を聞いて感銘を受ける
- 1940年
- 芹沢銈介を訪ねる
- 日本民芸館に研究・手伝いのために通い、棟方志功、笹島喜平と知り合う
- 1941年
- 銀座・鳩居堂で染織研究グループ「萌黄会」第1回展を開催。型染絵を出品する
- 1946年
- 戦後初の第2回日展工芸部に藍染を出品・入選
- 第1回日本美術及工芸交易振興展に振袖を出品・3等賞受賞
- 芹沢銈介らと萌黄会を「萌木会」と改称し、日本橋・三越で第1回展開催
- 1954年
- 柳宗悦のすすめで、棟方志功主催の日本板画院に版画を初出品
- 1956年
- 国画会工芸部、日本板画院の会員となる
- 1957年
- 第1回東京国際版画ビエンナーレ展で浜口陽三と国内大賞を争うが受賞ならず
- 1960年
- 日本橋画廊専属画家として2年の契約を結び、個展開催
- 1961年
- サラ・ギャスパー画廊(スペイン・バルセロナ)で個展開催。全点買上げとなる
- 1965年
- 「第1回日本美術見本市」招待出品(東京国立近代美術館、シカゴ美術館、サンフランシスコ・デ・ヤング美術館)
- 日本板画院退会
- 1969年
- 第1回国際版画展・受賞(スペイン・バルセロナ)
- 1975年
- 銀座・和光で個展。以降、92年までの間に和光で6回個展を開催する
- 1976年
- 「日仏現代美術展」出品(パリ・グランパレ)
- 紺綬褒章受章
- 1982年
- 第50回日本版画協会展・招待出品
- 日本版画協会会員推挙
- 1989年
- 『幻影の東京下町』(日本放送出版協会)刊行
- 再び紺綬褒章受章
- 1992年
- 個展「森義利の世界展」(銀座・和光)開催
- 5月29日93歳で死去
作品紹介
《暮の市(1)》
1957年 90×120cm
合羽版
《少々昔の下町図絵》
1983年 56×72cm
合羽版、手彩色